古くも新しいるしにゃん王国の人々

森国人は妖精の一種である森妖精とも言われることがある。そしてエルフという呼び名も多くの人が耳慣れる言葉だろう。
るしにゃん王国に住む彼らは森の神の祝福を受けた大森林の中に居を構え、大自然への敬意を忘れることなく、森と水を愛し、自然と調和した豊かで穏やかな文化を築く。そのさまは、訪れる旅人に幻想のおとぎ話の中に、あるいは時を越えて生きる古の文明の中に迷い込んだかのような錯覚を与えることだろう。

るしにゃん王国の民は閉鎖的、排他的と言われることもあるが、それは一部の視点から見た誤解だ。
彼らの本質は昔から温厚で平和的、柔らかく言い換えればのん気である。フリーダムと呼ぶ人もいるだろう。
その象徴的な風景が、作り物のネコミミや尻尾を被って仕事をする人がいても誰もツッコミをいれない、というものである。
彼らは単に猫好きが高じて、あるいはコスプレとして作り物ネコミミや尻尾をつけ、猫妖精のように振舞っている。
普通ならさもすれば上司に見られた瞬間に仕事を干されそうなところなのに、るしにゃんではそれを受け入れて楽しく仕事をするのだ。
そんな彼らはたぶん第一印象さえ悪くしなければ非常に友好的である。
なにせ建国より伝わる格言に「るしにゃんは友を忘れない」というものがあるくらいだ。
深い友情を結ぶことができたなら、きっとその多くは生涯信頼に足る隣人となるだろう。

古い伝説では彼らの祖先は森の神であり、かつては今よりも優れた知性や感覚を備え、森の神の眷属、祝福されし者として老いを知らず病にもかからない高貴な存在だったと語られている。
その真偽は定かではないが、森の神が猫の神々の系譜と親和性がよいように、るしにゃんの民は猫神族の末裔といわれる猫士達や、風渡るネコリス、トラリス達と仲がいい。
さらには、猫の言葉を解する猫神使いや、猫神族と共に戦場を駆け抜ける竜猫もいるくらいである。
るしにゃん王国の民の祖先は森の神であるという伝説。
もしもそれが真実で、るしにゃんの民に神の末裔としての力が受け継がれていたのだとしても、それが見せるものは今と変わらぬるしにゃんの森なのだろう。
森の神と猫神族の関係を知るよりも前から、テルさんはネコリスやトラリスと楽しく遊び、猫は変わらず日向ぼっこをして、アルフォンス様はにゃははと笑っている。
魔法とは、どこにでも見え、どこにでも感じられるものなのだ。

なお、この国には先祖の伝説を中心に昔より伝わる風習や伝承が多く残っており、そういった背景から知に対する好奇心が旺盛である。
あるいは教訓を伝えるために新しく作られる伝承なども多くあるほどである。
ゆえに、王立医学院、星見台といった学府や研究機関の運営にも積極的で、見聞を広げようと世界を放浪する旅に出る者も多い。
こういった探究心はつい高等な知識や技術に傾倒しがちであるが、保育園・小学校などの初等教育も整備されており、国民全体の知的レベルはしっかりと育てられている。
一方で、知識とは大自然の真理でもあるという考え方から、その追求には敬意と慎重さを忘れることはなく、禁忌への抵触は回避する傾向があり、徹底して禁じられている。


るしにゃん王国の生活基盤

るしにゃん王国の産業の主体は生命力の溢れる森や湖などの天然資源を背景にしたものである。
豊かな自然の恵みと、森を抜けた先にある畑や果樹園から収穫する作物。そしてそこから作られる衣食住を足らしめるものがその中心である。
また共和国の医療は森国の技術と言われるように、るしにゃん王国でも医学は盛んである、特に森の植物を用いた薬学は目を見張るものがあり、近年は他国の植物なども取り寄せた研究と薬作りが盛んである。

そして、俗にシーズン2と呼ばれる時節を境に、るしにゃん王国は激動の日々を送ってきた。
3度も多くの森が失われ、それを蘇らせるために奔走する日々。
またあるときはかつては見なかったモンスターが森を跋扈する時もあった。
これら万難を排し、再び、静かで平和な森を取り戻す。シーズン2は、まさにその復興の歴史であったといえる。
その激動にるしにゃん王国民は屈することなく、T18のときまでを生き延び、
共和国屈指のファンタジー国家として成長、また新しい産業のあり方によって確固たる地位を得た。
アイドレスの最後を見ずに滅ぶと予言さえされていた国がだ。
予言を覆せたのは、幾たびのやり直しに多くを学び、努力を重ねた結果なのだといえよう。

るしにゃん王国の文明は、外の国との接触に関わる部分を除いて、機械的なものを用いることは殆どない。
唯一の例外は、農業などにおいてトラリスと協働する際に彼らの身体となる乗り物を用意する程度であり、
インフラの整備においてもそれらは同じである。
たとえば、水道は天然の湧き水や井戸水があり、石・砂・活性炭などを用いた濾過設備を併用して飲み水を得ているし、下水も管理下のもと肥やしなどとして清流を汚すようなことはしていない。
住まいは樹上の木造にあって森と一体化しているものが主であるが地上に住む者もおり、公共施設などは石造りと木造建築を中心に地上に存在している。
これら施設の住まいは単純に好みや建造規模、施設の性質によるものであり、木の上だから、地面に住むからといった差別はない。一つの集落の中でも地上と樹上の両方に施設を保有するところは珍しくないのだ。

ここまでは外の人でも普通に考えるものだが、光熱エネルギーについても文明的な確保がなされている。
無限のエネルギーである太陽の光と月と星の煌きが森国の光熱エネルギーの基本となっており、
森の中で使うには危ないために厳重に管理されているが、火を使うこともままある。
たとえばある集落では、各家庭にではなく、共同で利用する石造りのかまど小屋が地上にあって、一日の炊事はそこで集落の全家庭が集まって行っている。
寒いときは暖をとるために集会所を兼ねるところもあれば、炊事にあわせて温石も用意し、寝床に持ち帰るといったこともしているらしい。
そして、移動中や住まいの中で明かりが足りない場合は発光性のある植物や菌類を利用しており、火事の危険がない石造りの建物であればロウソク・松明なども普通に使われている。
なお、火元の燃料には、薪や蜜蝋、穀物を発酵させて得るアルコールなどを用いている。

また、これらのエネルギー源には詠唱行為が用いられることもある。が、日常生活において魔法が盛んである、というほどでもない。
明かりの魔法を用いるのは、火が使えず、発光性植物もないようなときであるし、
薪に火をつけるのに湿気が酷かったり、落雷の残り火や集光レンズを使えないようなときに小さく火の魔法を呼ぶ。
魔法を使うのは最後の手段で、最小限に、最適なところに、精密な操作で最大効率を。
そういった心がけは、ゆきすぎた技術で一度は壊された日常と、友邦国であるゴロネコ藩国から学ぶ白魔法の考え方から見出された、
技術ばかりに頼り過ぎない、自然との調和を目指すファンタジーな生き方なのである。


ものづくりの枝

NWに住む森国人は全て魔法と医療の技術を根幹に保有しており、その発展の方向性によって各国は独自性を得ている。
玄霧藩国は魔法医療,ゴロネコ藩国は白魔法,海法よけ藩国は錬金術,世界忍者国は忍術など・・・。
そして同じように、るしにゃん王国にも、そういった独自の方向性がある。
医療においては薬学に最も力を注ぎ、忍者の系列の発展として竜猫の剣を鍛え、弓兵の弓をつくり、国内には多くのアイテムを扱う有名な商店がある。
そう、るしにゃん王国は、アイテムづくりの国であった。

森国人にとって、アイテムづくりは非常に関わりの深いものである。
伝説では自然と共存し、人と妖精、人と精霊の間に立つ者として、思いをこめたものづくりによって超常の力を宿すことができるといわれていた。
るしにゃん王国はその系譜を想起することができたのかもしれない。

もちろん、思いをこめただけで簡単にマジックアイテムが作れるほど、るしにゃんの民は神がかってはいない。
精霊回路を用いた強引な魔法の導引もしない。風習とともに伝承される儀式や魔術の理論を用い、その技法をもって精霊と心で対話し、魔法の力を道具の中におろすのだ。
そのため、あくまで魔法の道具は精霊と語り合って編み上げるもので、人の都合と身勝手で精霊を振り回すことのないようにするべき、と考えている。
ゆえに彼らが魔法や精霊を感じない者、あるいは低物理域の観点をないがしろにする者に自らの道具を渡すことはまずない。
そして彼らは機械製品を作ることはないし、機械と魔法との合作品を作ることもない。
森国人のもつ機械への忌避観はアイテム作りでも正しく受け継がれているといえる。

これら自戒と慎重を重ねたものづくりの姿勢は、彼らがTLOの危険性、うかつに魔法や絶技に頼ることの危なさについて、経験からくる深い造詣があるためである。
T10の頃にあった国の75%が消失した事件を受けて、二度と同じように行き過ぎたものを生み出さないようにしようと考えているのだ。
技術などいらぬと原始的な生活に帰ろうとするほどの経験と気質は文化的な再興を果たしつつある今でも正しく受け継がれ、
今もなお、文明・技術の在り方について考え続けているのだ。

また、日常において彼らの道具づくりは自分達の日用品や特別な装飾品と医療品、あるいはもしもの備えの武具(剣・弓矢・焦点具など)であることが多い。
それは自らや同胞が使うことを想定したアイテムであり、機械の介在しない文明において、機械の代わりに日常の生活を助けるものである。
そのため、彼らは自分達で作り出したものへの扱いにも長けていた。

弓を作る姿


そして大事なこととして、彼らは個人で絶技を持たない。
絶技もまたTLOの1つであるという認識から封印しているのだ。
やもすると、魔法も絶技の1つとして唱えられないのかと思われるが、詠唱と絶技は異なる物であるため詠唱戦は普通に行うことができる。
そのため、基本的な技能・能力傾向は他の森国と同様に魔法使いや医師に向いているのである。

とはいえ、彼らは魔法をみだりに使うことはしない。
出来うる限りを自らの力でこなし、どうしても人の手で届かないところに、最小限の力で最大限の結果を導けるように魔法とそれを宿した道具を用いる。
るしにゃんにとって、魔法とは自然の力の結晶にも異なるが等しいものである。自然とは共存するべきだが、そこに全てを依存して甘えるべきではない。驕り甘えれば厳格なる自然はすぐにその者に裁きの牙をむくのだ。
それらを知る経験と知識が生み出す技術に対して自律する心。バランスをとる中庸の考え方。
それが、いまのるしにゃん王国の文化の礎となっている。