子どもたちの健やかなる成長をお手伝いします

開設によせて −王国の保育園の有り方とは−

 ここからは少しかたい話になります。

 T16、国民的英雄であるイヌヒトの助力もあって復興の道を歩むるしにゃん王国にもベビーブームが訪ました。
子は親の宝、部族の宝、国の宝。子が増えることは最も喜ばしいことの一つと、自信を持って言えます。
しかし生まれる子が増えてくると、その世話・苦労もひとしおで、部族全体に嬉しくも大きい負担がかかります。 もちろん負担を軽くし、子供の過ごす環境を改善する努力をするのも子を守るものの勤め。
そうして作られたのが、保育園なのです。

 くり返しになりますが、家庭内に擁護すべき存在が新しく生まれるのは、彼らが自立するまでの間保護者に負担をかけます。
もちろん、この負担はほぼ全ての家庭にとって歓迎すべき嬉しい悲鳴であることには言うまでもありませんが、 ひとたび負担が保護者達の許容量を超えてしまうと、何らかの形で幸せは破綻し、大小はあれどひずみや不幸が生じてしまうでしょう。 ネグレクトや幼児虐待は、そのひずみや不幸が発現した1つの形なのです。
 ですが、新しい環境に適応し、負担を軽減する工夫を重ねるのが生物であり、人間です。 たとえば機械文明下では炊事洗濯に電動機械を用いるし、上下関係の厳しい貴族社会では女中を雇って家事を任せます。 これらの負担軽減の根源の一つは、人間以外の多くの生物も行っている「役割分担による機能特化」なのです。
 それ自体は、古くから人間の世界においてみることができました。
つまり、人間社会の最小単位である家族において、「男は外で仕事をし、女は家を守る」という考えです。 これは、生物学的な身体的特徴の差から生じたものです。総じて体格が良くなる男は外での力仕事に向き、女は妊娠から出産まで安静を求められるほか、出産後は離乳までの幼児の食事を提供できる唯一の存在となるため、家で守られ、また子供の世話をすることが求められ、離乳後も効率的な面から同じ立ち位置が要求されてしまうのです。
(注:この記述は男女差別を推奨するものではありません。)

 また一方で、社会の拡大や文明の進歩は、教育の終点を先延ばししていきました。言語の習得や道徳・社会性の構築だけでよかったものが、医学などの職につくための専門教育まで至るわけです。科学技術の進歩した国であれば、数学を基本的な武器とする最先端教育の修学までが必要な場合もあるでしょう。
 こういった負担は、これまでは徒弟制度や集落全体の協力による負荷分散で対処できたかもしれませんが、ベビーブームによって。負担の分散を要する被保護者(つまり子供)が増大したことで、これまでのシステムでは負担が捌ききれなくなってきたのです。
 繰り返しますが、子供が増えることは、けして悪いことではありません。大いに喜ぶべきことです。ただ、表の反対には裏があるように、何事にも良いところと悪いところが存在します。そのデメリットを許容できるか、あるいは許容できる形に自らや環境に調整を施すのが人の在りかたで、子に不幸が降りかかろうものなら、不幸から子を守り、不幸の原因を取り除く努力をするのが大人の務めだと思うのです。

 だから、子供の世話をする施設をつくり、子供の世話を一手に引き受け、専念する誰かがいればいいのだと考えました。親が不在となっても大丈夫なほどに。 子供の世話を一手に引き受け専念してしまうと、その方は自らの糧を自分の手で得るのが難しくなるが、面倒を見てくれた礼として対価を支払えば問題ありません。 これが保育園と保育士(保母さんや保父さん)であり、これらは、役割分担による機能特化という、人間社会の最適化の1つの形なのです。
 もちろん、これまでにあった医師や魔法使いというのも役割分担の機能特化の一つですが、医師や魔法使いは特殊な技能や知識を求められる技能士です。 また、家事の肩代わりという点では王宮や寮のメイドなども同じですが、「メイド」という職業自体は労働内容を限定されていない非機能特化であり、寮生や華族などの仕える特定の相手が必要です。 それらとは異なる保育士という職業は全く新しい存在です、ベビーブームへの適応とは、この新しい仕組みに適応することも求められているのです。

保育園の教育とは何か

 また、保育園は国民全体の知識を向上させる側面を持つアイドレスです。だが、政府方針として知識を推奨する記述は一つとしてありません。
そこには、設定とアイドレスデータということよりも大きな、一つの矛盾への答えがあります。
長い年月を経て、知識とは放棄するものではなく、先の見えない暗い道を照らす光明であることを私たちは学んできたと思います。
しかし、知識は、あくまで知識です。並ぶ数字にも、文字にも、善悪はありません。では、何が、知識を得た行いに悪を宿らせ、過ちに進まない抑止力となるのでしょうか?

 たとえば、スイッチを押すだけなら、知育遊具で遊ぶ赤ん坊にだってできます。原子力で電気をうみだす仕組みが作れれば、原子力で国を滅ぼす仕組みも容易に作れます。 では、原子力で国を滅ぼすスイッチが出来たら、子供らが国を滅ぼしてはいけないからと、赤ん坊から知育遊具を取り上げ、スイッチを押すことを覚えさせないべきなのでしょうか?
 もっと簡単な例をあげれば、こんなことを真似して罪を犯すかもしれないからと、誇張表現が御決まりの、ゲームや、演劇や、マンガといった娯楽を人々から取り上げるべきなのでしょうか?
それは違います。断じて、絶対に。

 自然の中に生と死の循環があるように、全てのものには、豊かにする側面と、破壊をもたらす側面があります。
 知識とは技術ではありません。その表と裏を知って理解することこそが本当の知であり、力を持つかぎりは、正しい知を得て望まぬ使い方をしないよう心がけなくてはいけません。
 知があるかぎりは、それを教え、人が道を過たぬよう導かなくてはいけません。そして、過った道を進む者を厳しい態度で咎めることも、忘れてはなりません。
 そのうえで本当に悔い改めているのであれば、やりなおすことを許す寛容な心を忘れないこと。これが答えであると、わたしたちは考えます。

 魔法の技術は神秘であると共に万能であり、弓具や医療など、るしにゃん王国のあらゆる場所に末永く根付く、切り離すことのできない存在になっています。
 その一方で、魔法のおおいに破壊をもたらす側面を国全体で享受してきたのも事実です。
 技術発展が容易で、簡単に物が溢れるニューワールドだからこそ、善悪と取捨選択のスキルを。技術よりも先に、それを揮う者の心を。それが私たちがすべきことではないでしょうか。
 長く友好の続くゴロネコ藩国より学んできた白魔法の教えもまた、これらの考えを備えた教えなのでしょう。 得た答えが活かされるかどうかもまた、答えを持つ者次第であることも、忘れてはならないのです。